Chapter 1

水を治めるもの、
国を治める
という戦国時代の教え

私たちが暮らしている平地は、元は洪水の跡地だったと瀧先生は教えてくれます。「平野は川が氾濫して水が運んだ土砂が堆積してできた場所です。それが繰り返されて、運ばれた土で高くなったところに集落が生まれたのです。時代は進み、武将たちの時代。隣国と闘うためには国力を高めなければなりません。洪水の被害で農地や人を失っては闘うこともできません。その対策として治水を行うようになったのです。その一人に戦国武将の直江兼続がいます。関ヶ原の戦いを終え、敗れた君主の上杉景勝は減俸されて米沢(山形県米沢市)へ追いやられます。兼続は米沢の治水事業に尽力しました。NHKの大河ドラマ「天地人」では、見事な治水事業を見た伊達政宗がこう言うシーンがあります。『川の流れ、町の配置、そのものが国を守り、民百姓の暮らしを守っていく。ここはひとつの小さな天下を成している』と。川の流れに応じて、安全なところに人が住むようにして、水が溢れるところには田んぼを作って国の生産力を高める。まさに治水は国づくりの礎だったと言えます」。

明治維新後にできた
現代の治水の考え方とは?

河川の側に堤防を整備して氾濫を防ごうとする現代の治水の考え方は、元々は江戸時代からありましたが、明治時代になって本格化したと瀧先生は言います。「明治時代になると、洪水を川の中に閉じ込めて溢れさせないようにするために堤防を整備することが本格化し、その法律も制定されました。それまでの治水の考えは、災害によって溢れるところは溢れさせて、集落などがあって守らなければならないところは守るというものでした。しかし明治時代以降の近代治水は河川全域を堤防で守ろうとするものです。明治、大正、昭和にかけて、ダムを始め、堤防が全国の河川の側に築かれていきました。当時はそれでよかったのです。温暖化の問題もなく、河川の氾濫もそう頻繁におきません。川全域を守ることで暮らしが守れるはずだったのです。しかし堤防には大きな問題がありました。地域を守るために高く堤防を積み上げれば積み上げるほど、決壊したときの被害は何倍にもなるということです」。

MizuMirai Vol.07

Special Feature特集①

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